「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」超有名なエピソードと実際

18世紀後半、イタリアのミラノにフェルディナント大公と呼ばれる貴族が住んでいました。このやんごとなきお坊ちゃまはある日、ハプスブルグ王朝の領袖である母マリア・テレジアから、こんな内容の手紙をもらっています。「そのような無用の人間のことで頭を悩ませる必要はない。世間を物乞いのように渡り歩く連中などを雇い入れたら、あなたの屋敷に仕えている奉公人たちにも悪影響を及ぼすことになりますよ」
物乞いのように渡り歩く連中…いうまでもなくモーツァルト父子です。以前、このエッセイでも触れた父レオポルトとのイタリア旅行の際、モーツァルト親子はフェルディナント大公に宮廷劇場での雇用を申し込んだらしいんですね。で、雇おうと思ってるんですけどいかがですかねお母様、と女王陛下に相談してみたら、来た返事がこれ。
神童モーツァルトの有名なエピソードに、転んだところを助け起こしてくれたマリー・アントワネットに「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」とのたまった、という話がありますが、この時6歳の彼が何をしていたかといえば、女帝マリア・テレジアの住まう宮殿での御前演奏です。彼女も当然その演奏を聴いているし、幼いモーツァルトを膝の上に乗っけてあげたそうですから、その神童ぶりに驚嘆したのでしょう。彼ら親子が有名になったきっかけは「女帝の前でこの御前演奏をした」ことも一因です。さらにモーツァルトは12歳の時、マリア・テレジアに再度謁見しており、演奏を聴かせるなどして2時間、一緒の時を過ごしました。15歳の時には、新作オペラを委嘱されたりもしています。

にも関わらず、冒頭の手紙です。つまり、モーツァルト父子がより良い就職の条件を求めてヨーロッパ各地で神童としての名前を売ったことは、ハイソサエティから見れば、賤しい旅芸人とイコールであったという悲しい事実があるわけです。まあ、貴族には庶民階級の泥臭い地道な努力なんてわかりゃしないですわね。そこには階級差という、見えないしかし厳然たる壁が立ちふさがっております(尤も、マリア・テレジアは領主になったばかりの息子フェルディナントが心配で、今そんな不安材料抱え込んでどうする、もっとやるべきことがあるでしょう、という親心からそんな返事した、とも考えられますが…)。いずれにしろモーツァルトは王侯貴族にとってそんなに大事な存在ではなかった。にも関わらず、息子が幼少時に神童などと変に評価されたものですから、父レオポルトはその後も「神童ともてはやされた我が息子はいずれ立派なところに就職できるのでは」と悪い夢を見続けた。そしてその夢はウォルフガングにも、若者特有の万能感となって遺伝していくのです。俺はきっとうまくやれるさ、やってみせる、だって俺、すごいって言われてきたのだもの。

さて、イタリア旅行から帰国し、領主が変わったザルツブルクに戻ってからのモーツァルトは17歳(1773)、しばらくは作曲に没頭します。いくつかの交響曲やディベルティメント(嬉遊曲)など、イタリア旅行の際に注文を受けた曲を精力的に書き上げました。第3回目のイタリア旅行出発の前、すでに新領主コロレド大司教からは安いながらも有給で宮廷音楽家として正式に雇用されていましたが、モーツァルト父子はまだまだザルツブルグで埋もれようなどとは考えていません。機会を狙ってはあちこちに縁故を求めて、より良い就職先を探そうと画策しておりました。昔よりは多少良いところに住居を移した様ですが、それとて理想の暮らしとは言い難かったのです。
そんな折、雇用者たるコロレド大司教がヴィーンの宮廷を訪問する為、ザルツブルグを留守にします。目ざといレオポルトがこの機会を逃すはずはありません。早速便乗して父子でウィーンに旅立ちます。目的は無論、著名人たちや有力貴族に面会して就職の斡旋を頼むこと。最終的にはウィーンの宮廷を訪問してマリア・テレジアに再度謁見し、あわよくば宮廷に…というところ。

女帝は会ってくれました。計3度目の謁見です。ニコニコと話を聞いてくれました。ですが、それだけ。もとより大した評価などしていないのですから、雇おうなんてこれっぽっちも思っていない。
「皇太后は私達にとても好意をお持ちでした。でも、それで全てでした。このことは帰ってから直接お前に話をしましょう…」レオポルトから妻宛の手紙からは、期待が外れた父の落胆ぶりが伝わってきます。
結局、ヴィーン滞在は7月から9月の短い期間で終わりました。職探しの旅としては全くの徒労だったわけですが、ただ全てが無駄で会ったわけではない。当時ウィーンにはヨーロッパの最先端とも言える実力ある音楽家たちが揃っており、彼らの最新の作品はモーツァルトに強烈な印象を与え、その結果彼の作曲スタイルは格段に進化したのです。特にハイドンの弦楽四重奏に触れることが出来たのは大きかった。洗練された知性的な書法に大いに触発されました。もともとザルツブルグの同僚音楽家でもあるアル中気味の友人ミヒャエル・ハイドン(ヨーゼフの弟)から話は聞いていたものの、実際に聞いてみたら本当にすごかった。テンポの緩急、奥行きのある構成。同業者だからこそわかる深みに、モーツァルトは大いに刺激を受けた。名曲「交響曲第25番ト短調」が生み出されるのは、ヴィーン旅行から帰国したすぐ後のことでした。

さて、このあたりから徐々に、モーツァルトには田舎暮らしのストレスが鬱積し始めます。その後ミュンヘンやパリに旅行して、都会の最新のムーヴメントに触れ、その度に「帰れば田舎の宮廷で安月給の暮らしが待っている」と思い知らされる20歳前後のモーツァルト。コロラド大司教とのカタストロフィの足音が遠くから聞こえ始めています。この続きは、また次回。

文:作曲家 植田 彰

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