モーツァルト親子がポンペイに出現!?

ポンペイってご存知ですか。イタリア・ナポリ近郊です。西暦79年、ヴェスヴィオ火山の噴火によって街ごと火砕流に飲み込まれ、消滅してしまった古代都市。今じゃパンデミックで見に行けませんが、イタリアの有名な観光スポットです。
遺跡からは古代ローマ人の豊かな生活が伺えます。水道網など、非常に整ったインフラ。横断歩道もあったようです。美しいローマ建築。娼館があった辺りからは扇情的な壁画も多数発掘され、現在では「愛の街」と呼ばれることもあるそうな。街の守護神は美の女神、ヴィーナス。

発見されたのは1748年(関係ないけどバッハが亡くなる2年前ですね)、そこから大規模な発掘が始まります。昔のことですから作業も時間がかかりましたが、前回お話ししたモーツァルトの第1回イタリア訪問の頃(1770年)には発掘もほぼ終わりを迎えていました。

当時大変な話題となっていたこの遺跡を、モーツァルト親子も訪れたことが、残された彼らの手紙から分かっています。火の山として知られるヴェスヴィオ火山(フニクリ・フニクラの舞台です)から依然立ち上る噴煙と閃光、そして古代ローマの生活跡がまざまざと残る街の残骸。14歳となった息子ウォルフガングは相当な感銘を受けたようです。少年から青年へと差し掛かる、感受性豊かなその時期のモーツァルトが、この遺跡のエンタシスの前で何を感じ、何に思いを馳せたか。知る由もありませんが、ポンペイと彼には不思議な縁もあって、晩年に彼はボへミア政府から委嘱を受けて「皇帝ティートの慈悲」というオペラを作曲します。主役たるティート(ティトゥス)とは噴火があった当時のローマ皇帝で、ポンペイなど災害地域の復旧に尽力するあまり過労死してしまったと言われる実在の人物です(イタリア滞在中、モーツァルトはハッセという作曲家の、同じ題材のオペラを見学しています。作曲中はきっとその記憶も脳裏をよぎったことでしょう。ハッセはドイツ人なのですがイタリアかぶれな人で、曲も軽快で僕は好きです。ト短調のシンフォニアなんかカッコよくてしびれちゃいます。興味のある人は聞いてみて下さい)。
とにもかくにも、モーツァルトは13〜17歳の間に計3回のイタリア旅行を経験しています。イタリア音楽が彼に及ぼした影響は、確かに重大なものでした。モーツァルト作品の醸し出す華やかで流麗なエネルギーは、まさしくイタリアでの研鑽の賜物でしょう。加えていうならば、晩年の対位法への傾斜もイタリアのマルティーニ師の影響なくしては語れません。父レオポルトは息子にイタリアの音楽を吸収させたかった、そしていうまでもなく、将来は都会で作曲家として生計を立てさせたかった。その足がかりをイタリア地方の諸都市に求めていました。最初のうち、計画は成功したかに見えました。ウォルフガングは神童として数々の光栄に預かります。勲章も貰ったし数々のオペラの委嘱も受けるし、それはもう前途洋々。ところが、人気は所詮うわべだけのものでした。大きな収入には結びつかず、これといった大きな収穫も得られぬまま、3回目の旅行を最後にモーツァルトは二度とイタリアの地を踏むことはなかったのです。

そして、運命の歯車はこの頃から少しずつ軋みだします。
それはちょうどモーツァルト親子が2回目のイタリア旅行を終えて帰ってきた日のこと。今まで、いくらあちこちを飛びまわろうとモーツァルト親子に寛大な処置を見せ続け、資金援助までしていた領主、大司教シュテファンバッハが亡くなりました。もともとザルツブルグはローマ教会の偉い人、すなわち大司教が治める独立地域で、そのトップ、要するに王様みたいな人が亡くなったわけです。
やがて、新しい大司教としてコロレド伯爵(ヒエロニュムス・フォン・コロレド)が決定します。
この人、政治家としてそれなりに優秀な人だったらしく、厳格な政治でザルツブルグに多くの改革をもたらしたようですが、どうもモーツァルトとはウマが合わなかった。一説には背の低い人を全般的にコロレド氏が嫌っていた、という話もあるのですが(モーツァルトは旅から旅の生活で身体の成長が十分ではなく、背もかなり低かったようです)…というよりは、結局モーツァルトが勤め人に向いていなかったのだろうと思います。一応、大司教の宮廷で雇ってもらえたのに、次から次へと大司教の神経を逆なでするようなことをする。レオポルトは本当に困って、毎回その尻拭いをするのですが、そんな風に育てたのも自分なのかもしれない、と心のどこかでかすかに思っていたことでしょう。いろんなところを旅させて、長い時間定住して教育しなかったのが悪いのか、幼い頃から神童として扱われて無駄な万能感を持たせてしまったのが悪いのか…考えればきりがない。子育てなんて、正解はないのです。
ちなみにこの大司教、ずっと先ですが、晩年は結構かわいそうな人生を送っています。革命後の共和制フランス政府に攻め込まれ、ザルツブルグを命からがら脱出、ウィーンに亡命し、君主権の放棄宣言を余儀なくされます。つまり大司教領の最後の領主で、日本で言えば徳川慶喜みたいなものでしょうか。
さて、そんな話はさておいて。ザルツブルグの青年モーツァルトはやがて故郷との決別を余儀なくされます。まるで不良少年と糞真面目な教頭先生との戦いのようなこの大司教との不和が、彼の人生を大きく変えていくのです。この辺の詳しい経緯は、また次回に。

文:作曲家 植田 彰

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