(エルガーも使用)モーツァルトと暗号

現存しているモーツァルト父子の手紙には何通か、暗号が使われているものがあります。と言ってもエルガーの手紙のように凝ったものじゃなく、アルファベットをいくつか別の文字に置き換えただけのシンプルなものです。ふざけあって暗号遊びをする父と子…なんてほのぼのしたものではなく、彼らはザルツブルグの領主、コロラド大司教に手紙を盗み読みされるのではないかと疑っていたのです。実際に大司教が手紙を読んだかどうかはともかく、この雇い主はモーツァルト父子にとってそんな風に思われている人物であった、ということは確かでした。

ここで時系列を確認しておきましょう。
1771年8月 第2回イタリア旅行。
12月 ザルツブルグに帰郷。前領主シュラッテンバッハ大司教、亡くなる。
1772年3月 後任の大司教としてコロラド伯爵が選出される。
8月 ウォルフガング、年俸150フロリンの宮廷楽士長となる。
10月 第3回イタリア旅行。
1773年3月 ザルツブルグに帰郷。
7月 ウィーン旅行。就職活動をするが失敗する。
9月 ザルツブルグに帰郷。
1774年12月 ミュンヘン旅行。オペラを上演する。

前回、モーツァルトの生涯:第5回「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」超有名なエピソードと実際で書きましたが、1773年のウィーン旅行は就職活動の旅としては失敗でした。皆、笑顔で迎えてはくれるものの、それだけ。失意のまま父子はザルツブルグに戻り、モーツァルトはそれから1年2ヶ月ほど故郷で過ごすことになります(名作「交響曲第25番」はこの時期に作曲されました)。前年、新領主コロラドより宮廷楽士長に任ぜられてはいましたが、年俸は150フロリン。これは現在の日本円に換算して、約150〜160万といったところでした(1フロリンが現在の約1万円くらい)。神童として扱われてきたモーツァルトにとっては、とても満足出来る報酬ではありませんでした。

加えてコロラド大司教は、極端なイタリア人音楽家びいきでした。これはザルツブルグのみならず、ヨーロッパではよくあることだったのですが、音楽家といえばイタリア人、という図式があったのです。華のある軽やかなイタリアンスタイルは、各地の宮廷で人気を博していました。
大司教は父レオポルトの楽長就任の希望を聞き入れず、外部からイタリア人音楽家を招聘して楽長に据えます。イタリア人、その次もイタリア人…中には全く無名で実力も無い人物もいたようなのですが、彼らはモーツァルト父子よりはるかに高い給与をもらい、住宅手当まで手にしていました。自分は各地で神童と呼ばれ、名声(だけ)は一流なのに、こんな得体の知れない奴らより下に扱われる。一刻も早くこんな田舎町を出たい。自分の才能に見合った地位を得たい…モーツァルト父子、なかんずくウォルフガングの焦燥と不満は日に日に大きく膨らんでいきます。

さて1774年12月、父子はミュンヘンへ旅立ちました。この年の夏、バイエルン選帝侯マクシミリアン3世からのオペラの委嘱があり、上演に立ち会うため大司教から許可を得たのです。この時、モーツァルトは18歳、あと2ヶ月ほどで19歳になるところでした。このオペラ(「偽りの女教師」)は大成功で、かなりの評判をとったようです。
ちょうどその頃、別件で大司教がミュンヘンを訪れます。初演には間に合いませんでしたが、初演がうまくいったことはほうぼうから聞かされました。ミュンヘンの人々からその話をされるたび、大司教は「困惑のあまり、ただ頭でうなずかれ、肩をすくめられるだけ」であった、とレオポルトは妻宛の手紙に残しています。
ただ、これは恐らく、大司教にとっては面白くなかったでしょう。彼は徹底した貴族主義者で、要するに音楽家といえどもただの使用人に過ぎん、貴族階級以外はまともに相手にしない、という人でした。ましてやモーツァルト父子はどうもワシに隠れてあちこちで就職活動をしておる。神童だかなんだか知らんが、父親のレオポルトなんてしょっちゅう旅に出ていて、宮廷にほとんどいなかったというじゃないか。宮廷になんの貢献もしていないのに楽長にしてくれだなどと、虫が良すぎやしないか。加えて毎日不平ばかり言っているので楽団内に敵も多いと聞いている。息子の給料は150フロリンかもしれないが、親父にだって年に350フロリンは払っている。召使い一家に払うならまあそれなりな金額だ。それを、なんなのだ、これ見よがしに「私たちは世間で評価されているのです」てなドヤ顔しくさって…。

こうした労使の軋轢が、ミュンヘンのオペラ上演から2年後の新たな旅行に際して、父には同行許可が出ずウォルフガングのみに休暇が与えられたことへと繋がります。父子は当初、この就職活動旅行のために2人分の休暇願を出しますが、受理されませんでした。何回かのやり取りの末にとうとうウォルフガングは宮廷に辞表を出すことにしたのです。ところが大司教の返事は「息子だけでなく父親の辞職も許す」というものでした。事実上の解雇通知です。よそへの就職活動がバレバレな親子に、大司教も相当ムカついていたのでしょう。慌てたレオポルトは大司教に許しを乞うて現職の副楽長にとどまり、結局ウォルフガングは母と二人でまずはミュンヘンへと旅立つことになります。

父は息子を一人で旅立たせる気はありませんでした。21歳になるが、どうもうちの息子は社会人として頼りない。その点、母が付いていれば余分な厄介ごとに巻き込まれず、精神的にも安心だろう。母アンナ・マリアは物分かりの良い、夫に従順な妻であり、ハッキリ言えば夫と家族への責任に支配された、犠牲者的な存在でした。息子は旅行先のパリで、彼女の死を一人で看取ることになります。そのお話は、また次回。
文:作曲家 植田 彰

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