今は亡き、クラリネット吹きの先輩…

いよいよ、急性前骨髄球性白血病(APL)の地固め3回目コース、抗がん剤投与ラストの再入院が週明けの月曜日からはじまります。カウントダウンです。

この一か月で劇的な回復力を感じながら、闘病生活の5カ月を振り返ったりしました。と同時に、まだ残っている治療や、病気と生きていくことを考えていました。

長期の入院生活の中、私と全く同じ病名の患者さんとは、まだ一度も出会ったことはありません。血液の病気、白血病とはいえど、種類は幾多とあります。この時代、SNSを介して、間接的に繋がることはありますが、十分な情報があるわけではありませんし、症状には個人差があります。

この病になってからずっと、ある一人の偉大なクラリネット吹きの先輩のことを思い出さずにはいられませんでした。

私は京都にある音楽高校へ通っていました。通称、『堀音』とい呼ばれている高校です。一学年40人で、全校生徒で120人。先輩も後輩も皆、顔見知り。私が一年生の時に、三年生だった先輩で、吉田光志朗さんという方がいました。彼はとても物腰柔らかな話し方で、包み込むような笑顔が温かい人でした。「光志朗さん」と後輩達からは慕われて、彼のクラリネットは人柄そのものでした。そんな、光志朗さんが大学受験直前に白血病になってしまったのです。当時は詳しい病名などは知らず、最近になって知ったことですが、慢性骨髄性白血病だったようです。若い私たちは、どのように接していいのかもわからず、ショックを受けていました。彼はそんな身体にもかかわらず、桐朋音大に入り、病気を抱えながらも音楽活動をされていました。骨髄バンクのチャリティーコンサートなどもされていました。残念ながら、闘病の末、光志朗さんは若くして、天国へ逝ってしまいました。大学時代、私の演奏会に足を運んでくださり、「風邪とかに弱くてね~。本当によかったよ。そのまんまでいいんですよ。」と笑顔で言ってくださった様子を今でも覚えています。まるで、何か達観しているような口調でした。彼は、とても自分の2つ年上には思えない、まるで、もっと長く生きているような、偉大な先輩でした。

勿論、医療は光志朗さんが闘病していた頃よりも進んでいます。私の白血病も生存率が高くなり、再発率も低くなっています。ですが、やはり残念な結果を知らされることがあるのも、事実です。それでも、生きたいと皆、願いながら闘病されている方が多くいらっしゃいます。自分の半分くらいの年齢の光志朗さんが、当時、あんなに立派に病と闘いながらも、音楽家として人として、世の中にメッセージを発信していらしたことを思うと、自分も音楽家として、人として何ができるのだろうかと、考えさせられました。

ラストの抗がん剤をしながら、ゆっくり考えてみようと思います。課題をいっぱい持って、再入院です。そして、必ず、乗り越えて家に帰ろうと思います。

みんなに会えるように、音楽ができるように、日常に戻れるように。

2020.10.9.

稲岡千架

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