システィーナ礼拝堂の門外不出の秘曲ミゼレーレを盗んだのはモーツァルトだけではなかった?!

どうして、こんなことばかり起こるのか。
稲岡さんが、闘病生活に入りました。
前回、このコラムでまず採り上げたのは新コロナウィルスについてでした。これを書いている5月半ば現在、もちろんコロナの脅威はまだまだ続いていますが、まさか彼女にこんなことが起こるとは思いもしなかった。稲岡さんは現在、懸命に戦っています。その病気の苦しさを知らない僕には軽々しく「頑張れ」なんてとても口にはできませんが、…僕なんかに言われなくても彼女は頑張っているようです。日々の様子をSNSなどで発信していますが、泣き言ひとつ言わず、前向きに、未来を信じて、明るい言葉を書き続けている。本当に偉い人だ。頑張り屋です。何事にも真剣に取り組む姿勢、実に見上げたものだと思います。彼女は僕の遥か年下ですが、年齢など関係なく、人として尊敬できる。とまあ、ここまでおだてておけば、彼女が復帰した時に僕も多少は優しくしてもらえるでしょう。それは冗談ですが、みなさん、末長く、稲岡さんの復活に向けての努力を応援してあげてください。
ところで、モーツァルトの話です。
前回、幼少の彼が親父によってヨーロッパのあちこちを連れ回されて病気ばかりしていた話を書きました(ただ、それは同時に音楽家になる為の高度な教育であったとも言えるのですが…)。今回は13歳、初めてイタリアを訪れたところから話は始まります。モーツァルトは少年期に3度イタリアを訪れますが、この旅行はその1回目です。この旅を父レオポルトが企画した目的、それはもちろん神童としての息子の名を売ることであり、同時に芸術の本場イタリアの音楽を存分に吸収させることでした。ヴェローナ、マントーヴァ、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ。あちこちを渡り歩き、何度か演奏会を催して好評を博します(幼い面持ちであったせいか、彼はまだまだ神童としてチヤホヤされました)。また劇場に足を運んで本場のオペラを堪能します。高名な作曲家や貴族など、多くの知己を得ることもできました。特筆すべきは対位法の達人、マルティーニ師に出会い、何度かレッスンを受けたことでしょう。この出会い、僕はモーツァルトにとって非常に大きな出来事であったと考えています。ジョバンニ・バッティスタ・マルティーニGiovanni Battista Martini、この老聖職者は当時、対価として音楽家達からの大いなる尊敬を受けていました。イタリアに滞在中、モーツァルトはこの師のところへ何回か通い、教えを受けています。このエッセイの第1回でも触れましたが、バッハの作品などでよく目にする「対位法」という技術、これは「各声部を均等に扱うためのテクニック」で、ありていに言えば音楽上の「交通整理」の技術です。モーツァルトのオペラを好んで聞く人は、例えば「フィガロの結婚」で彼の交通整理技術の巧みさを目の当たりにするでしょう。一癖も二癖もある登場人物が入れ替わり立ち替わり、次から次へとトラブルを起こす。だがそれが一筋の音楽の中にこの上なく整然とまとまっている。こうした力は対位法の技術無くしては成し得ないことだと言えます。
モーツァルトはこの師から熱心に学びます。師の方でも少年の実力には舌を巻いたようで、彼をボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に推挙します。これは現在も続く音楽家の協会で、入団するためには対位法の厳しい試験(対位法に基づいた曲を時間内に完成させる)を受けねばなりません。伝わっているところによればモーツァルトは、普通は何時間もかかるこの試験をわずか1時間で完遂し、驚いた審査員達による満場一致の賛同で、会員資格は満二十歳という慣例を破って特別に会員資格を与えられています。
もう一つ、モーツァルトのイタリア旅行における特筆事項を挙げておきましょう。有名なローマ・システィーナ礼拝堂での「ミゼレーレ」丸暗記です。イタリアを旅するうち、彼ら親子は大都市ローマに辿り着き、すぐにシスティーナ礼拝堂へと向かいます。バロック初期の作曲家アレグリAllegri(1582〜1652)の合唱曲「ミゼレーレ」を聞くためでした。9声部のこの曲はいわゆる「門外不出」で、この礼拝堂以外で歌ってはいけない、当然楽譜も公開してはいけないという厳しい制約が与えられている曲でした。ところが、モーツァルトは1度聞いてほぼ全てを暗記し、楽譜に書いてしまったのです。別の日にもう一度出向いてその曲を聴き、数カ所の些細なミスを訂正しました。この楽譜は少し後に教皇庁専属の歌手によって正しいことが証明され、彼の天才少年ぶりが改めて話題となりました。このことが主な要因となって、時の教皇クレメンテ14世から「黄金拍車勲章」というなかなかすごい勲章をもらっています。なにせ「いつでも自由に教皇庁の各部屋に入れる」「裁判で訴えられても教皇庁が守ってくれる」という特典のついた賞です。日本で例えれば…例えばいつでも首相官邸に出入り自由、くらいの勲章ですね。父の得意思うべし。よくやったぞ我が息子よ、見たかザルツブルグ宮廷の田舎者ども、お前達が評価しなかった男の息子が、今こうして光り輝いている。まさに栄光の時です。そして、これが恐らくウォルフガングの絶頂期だったかもしれない。やがて彼はイタリアで声変わりを迎え、いつもうまく立ち回れない、どこか社会性の無い大人へと成長していくのです。この続きは、また今度。
あ、そう言えば、モーツァルトが出来たなら僕も…と考えて、彼の次に「ミゼレーレ」の一発暗記を達成した作曲家がいますね。ヨーロッパ有数のユダヤ系大富豪の家庭に生まれたスーパー天才おぼっちゃま、メンデルスゾーンです。

文:作曲家 植田 彰

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