第2回:モーツァルトの生涯、その1

さて、これを書いている2020年3月、日本の音楽家たちは大変な時期を迎えています。新コロナウィルスの流行により、あちこちの演奏会を自粛せざるを得なくなりました。こうした社会不安が起きる度、真っ先に被害を被るのは音楽家のようなアートに携わるものだったりします。だからこそ世の中の流れにプロテストする作品が作られ、芸術の命脈が保たれるのかもしれない。「芸術家は社会の泥を肥やしにして育つ」なんてことを傍観者たちは平気で言いますが、全く、イヤな話ですよ。

しかし、あんまりクサクサしてもいられない。進むべき道はない、だが進まねばならない。モーツァルトの作品でも聴いて、イヤな気持ちをしばし忘れてしまいましょう。ここからは稲岡さんのピアノアルバム発売と連動して、モーツァルトの生涯を、数回に渡って解説していこうと思います。

しかし、そういえばなのですが…果たしてこの大作曲家は「伝染病」にかかったことがあるのか?

あるんですね、実は。11歳の時、姉ナンネルと共に、父と旅行した先のウィーンで「天然痘」を罹患し、生死の境をさまよっています。

ヨーロッパを語る上で決して抜きにできないもの、それは各種の伝染病です。ペストやコレラ、チフス等、様々な病気が度々パンデミックを起こしています。第一次世界大戦なんて終戦の原因はスペイン風邪(インフルエンザ)で兵士がどんどん死んじゃって各国が戦闘継続不能になったからですよ。島国の我々では実感しづらいですが、大陸に住んでいる人々にとって伝染病は本当に、恐ろしいものなのです。

そして、モーツァルト姉弟がかかった「天然痘」は伝染病の中でも一、二を争う実に凶悪な病気でした。ペストと共に「悪魔の病気」と呼ばれ、人類は数千年に渡りこの病気に悩まされてきたのです(紀元前エジプトのファラオのミイラからも天然痘ウィルスに罹患した痕跡が検出されたそうです)。

イギリスの医師ジェンナーが「種痘」(知らない世代の為に→言うなればワクチン接種です)を考案したのは1796年、モーツァルトは1791年に亡くなっていますからまだ予防なんて及びもつきません。

天然痘に罹患すると、皮膚に大量の発疹が出来ます(カサブタに近いもので、残っている写真を見ると相当にひどい状態です)。モーツァルトは姉と共になんとか一命はとりとめたものの、彼の顔にはひどいあばたの跡が残った、と言います。ただ、この辺はあんまり定かじゃないんです。モーツァルトの有名な肖像画のいくつかにも、そんな跡は一切描き込まれていない。これ、実は当時の暗黙の了解で、肖像画を描く時には天然痘によるあばたの跡は描き入れない、というルールがあったようですね。しかし「モーツァルトはかなりの丸顔であばたがひどかった」という当時の証言もあり、どうもそれほどイケメンではなかったかもしれない。

まあ顔にブツブツが残ろうがなんだろうが、ともかくも彼は一命をとりとめた。これは後々の人類にとってとてもありがたいことであったわけなのですが、そもそも彼はその当時、なぜウィーンに居たのか。

モーツァルトが幼少期、父レオポルトに連れられてヨーロッパ中を旅行していたのは有名な話です。姉ナンネルと共にあちこちで演奏を披露し、目隠しでクラヴィーア(昔のピアノ)を弾いたり作品を披露したり、要するに快楽に飢えた貴族たちのちょっとした見世物として世界各地を回ったわけですね(もっとも、当時の音楽家は半分ぐらい見世物です。音楽の世界において「芸術家」という概念はまだまだ芽吹いてもいませんでした)。以下、幼きモーツァルトの年表を、彼の体調面でのことをクローズアップしながら書き出してみました。

●1756年 モーツァルト、オーストリアの小都市ザルツブルグで誕生(1月27日)。

●1760年 モーツァルト4歳。父レオポルトにクラヴィーアを習い始める。

●1761年 5歳。クラヴィーアの腕前はメキメキ上達、初めて作曲を試みる。

●1762年 6歳。モーツァルト初めての旅行、父および姉と共にミュンヘンへ。バイエルン選帝侯マクシミリアン3世の宮廷で演奏、評判をとる。同年、母も一緒に家族4人でウィーンに。神童と呼ばれる。ウィーンで結節性紅斑を罹患して寝込む。

●1763年 7歳。ウィーンから帰郷。急性ロイマチス性多発関節炎を罹患し寝込む。回復後、また旅行に。ベルギーやチェコ等で演奏会を開いたりしながら、半年かけてパリへ。ヴェルサイユ宮殿でも演奏する。

●1764年 8歳。パリで数ヶ月の滞在の後、4月にロンドンへ。夏頃にモーツァルトが体調を崩して寝込み(病名不明)、七週間ほどの療養を余儀なくされる。

●1765年 9歳。オランダに渡るが、喉頭炎になり寝込む。回復後、今度は腸チフスを罹患し、生死の淵を彷徨う。

●1766年 10歳。パリを経由してザルツブルグへ帰郷する。パリに寄った際、以前彼らの世話をした文学者(グリム。童話で有名なグリム兄弟とは別人)の邸に滞在するが、その際モーツァルトが肉体的に全然成長していないことに気づく。

●1767年 11歳。ザルツブルグから再びウィーンへ一家で旅行。ウィーンでは天然痘大流行。一家は病気を避けて別の街へ移ったが、モーツァルトが感染してしまう。

●1768年 12歳。病気が治り、ウィーンに戻る。1年間滞在、オペラなどを作曲。

●1769年 13歳。1月、ザルツブルグに帰郷。年末に今度はイタリアへと旅立つ。

現代の基準で考えると、年端もいかない子供を世界各国に連れ回して演奏させる、なんてのは幼児虐待もいいところです。もちろん当時のことを現代の基準で考えてはいけない。レオポルトだって現代人だったらいかに息子に才能があってもそこまではしないでしょうよ。とはいえ、こうして年表を見るとモーツァルト、気の毒なくらい病気ばかりしていますよね。鉄道も飛行機もない時代、旅行はいつも何があるかわかりませんし、どこの医療も大したことなかったでしょう。慌ただしい生活の中、余暇を惜しんでクラヴィーア練習、睡眠も食事もままらなかったかもしれない。

1766年にパリでグリム氏がモーツァルトに再会していますが、上記のように「肉体的には全然成長していない」ことに気づいたものの、音楽家としての能力は著しい発展を遂げていたことには驚かされたという記述を残しています。

なぜこのようにヨーロッパ旅行を繰り返すことになったのか、といえば、もちろん父レオポルトの意向に他ならないのですが…じゃ、レオポルトは息子に寄生して金儲けを企む悪い親父だったのかというと、案外そうでもない。彼は長年ザルツブルグの宮廷でヴァイオリニストとして活躍し、最終的には副楽長を勤めていましたし、彼が息子ウォルフガング誕生の年に著した「ヴァイオリン教本」は長い間ヨーロッパのヴァイオリニストにとって定番の教科書でした。決してダメな親父ではなかったでしょう。

ただ、彼の上のポストである宮廷楽長の座が何度か空席になったものの、その後任に彼がつくことは出来なかった。いつもよそから後任者が迎えられていたのです。企業でもありますよね、生え抜きをそのままトップに据えるのがはばかられるという理由で外部から社長を連れてきたりすること。そういう悲哀を味わった人なのかもしれない。また一説にはいつも息子にべったり、仕事を放棄して一緒に旅行ばかりしていたので最終的には後任者になれずに終わった、とも言われています。

とにかく、レオポルトは自分ではなく息子の将来に賭けた。ザルツブルグのような田舎の宮廷音楽家で一生を終わってほしくない、という思いもあったでしょう。当時の旅行は大変危険であった。そんなリスクを冒してでも、彼は息子に大音楽家となって欲しかったのです。父の仕事を息子がつぐのが当たり前であった時代、そう夢見たのは当然と言えるでしょう。

そして、父の願いは変な意味で叶えられます。息子はやがて落ちぶれ、借金まみれで亡くなることになりますが、後世の時代に認められて、大音楽家としてその名を残すことになりました。モーツァルトを大音楽家に押し上げたものはなんであったか。その要因の一つとして、13歳のイタリア旅行は非常に大きな意味を持っています。その続きは、また次回に。(続)

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